Cross 5





シャワーを浴びた跡部は何をしてもやる気がでない体を引きずって、

そのままベッドへと寝転んだ。

考えてしまうのはいつも忍足のこと。まだ、忘れらない。

いや、忘れる日なんて来ないと思う。まだ、跡部は忍足が好きだから。

諦めの悪い男だといわれてもかまわない。

忍足でなければ駄目なのだから。

代わりはいない。代わりなんていらない。

テニスだって、捨ててしまえる。それほどに跡部は忍足が好きだった。

「千石に会うか……」

決着を付けなければならない。跡部は身体を起こし、携帯を取り出す。

メモリーにある千石の名を確認してから電話をした。

あの時から消せずに残っている千石の携帯番号。

変わっていなければ、そのまま通じるはずだった。

跡部はそんな自分に自嘲気味に笑った。

「俺は…好きだったんだぜ。お前が……」

つぶやくように、誰もいない暗い部屋で跡部は独りごちた。


『もしもし…』

小さな声。

「千石…?」

『…跡部くんかぁ。どうしたの、俺の電話番号憶えててくれたんだ。嬉しいな……ゴホッ……』

いつもとは違うゆっくりと小さく話す千石の声。時折咳き込む。

「今どこに居るんだ?」

跡部は何かあったのだと感じて、電話をしながらベッドから起き上がった。

少しシワのついた服が目立つ。

『君の家の……ゴホ……駅の…近くの路…地裏……ゴホゴホ……』

途切れ途切れに話す千石の声が少しずつ弱々しくなる気がした。

『ごめん…跡部くん。怖いお兄さんたちにからまれちゃって…帰れ………』

携帯の向こうで千石の声が途切れた。

「おいっ、千石っ!」

跡部はひっきりなしに千石の名前を呼んだ。

だが、何の返事もかえってこなかった。

跡部はクソッと舌打ちをし、電話を切った。

上着をはおりながら、部屋にでると運転手を呼んだ。

駅の近くの路地裏。確かに千石はそういった。

車と運転手を近くに邪魔にならないところで置き去りにし、跡部は千石を探し続けた。

路地裏なんて一杯ある。跡部には焦りの色が見え始めた。

『どこだ?千石っ!』

ふと、跡部は再び千石に電話をした。

繋がれば、そこから着信音が鳴り響く。

微かに音が聞こえた。跡部は音を頼りに歩き始めた。

「千石っ!」

路地裏に倒れ込んでいた千石を跡部は見つけた。

制服は泥まみれで、身体のあちこちには傷や痣があった。

「千石、大丈夫か…?」

身体を揺さぶる跡部。

「ん…」

微かに千石の瞳が開く。

「あ…跡部くん…来てくれたんだ…ね…」

「しゃべるな。歩くぞ、立てるか。千石」

跡部の肩をかりながら、どうにか千石は立ち上がった。

そのまま、車の方へのゆっくりと歩き出した。

跡部は客室で寝る、千石の寝顔を見つめていた。

家に運んだ千石をベッドに寝かし、メイドに傷の手当てをさせてから、

跡部は千石の家に電話をかけ、今日一日ウチで泊まることを伝えた。

メイドは傷の手当てを終えると、一礼して部屋を出て行った。

『…少しやつれたみたいだな…』

顔色が悪い。生気がない。

ついこの間会ったばかりなのに、何があったのか。

こんなにも雰囲気の違う千石を見たのは多分、初めてだろうか。

いつもニコニコとした仮面を被った男。

人懐っこい、穏やかな笑顔を浮かべた男。

どこからどこまでが本心だか分らない人当たりのいい男。

それが、千石清純という男だと跡部は思っていた。




「ん……」

千石が静かに意識を取り戻す。跡部は思わず、椅子から立ち上がる。

「気がついたか、千石…」

開いた視界に跡部が写る。

「あとべ…くん?」

千石は辺りを見回し、状況を確認していた。

目の前に跡部がいる自体驚いている。

「何驚いてんだ。ここは俺の家だ。倒れてるお前を運んだんだ。感謝しろ」

跡部にそういわれて、千石はようやく思い出した。



亜久津に殴られたあと、千石はまたフラリと歩いていた。

丁度、怖そうなお兄さんに肩をぶつけられ、因縁をつけられた。

もっとも、千石には彼らの言葉など聞こえてはいなかったのだが、

そんなこと知らない怖いお兄さんたちはそれが無視したと思い、腹が立ったのだろう。

千石を裏路地に引っ張りだし、殴った。

あらかた、殴ると気分が晴れたのか、彼らはどこかへと姿を消してしまったわけだ。

『痛いな……でも…何かどうでもいいかなぁ……』

そのとき、千石は確かにそう思っていた。

身体の痛みよりも…精神的な痛みの方が大きかった千石にとって…。



「ありがとう・・跡部くん。迷惑かけちゃったみたいで……」

身体を起こして、千石は謝った。

それでも、千石は元気がなかった。

跡部はベッド脇にあるテーブルに置いてあるティーカップを手にすると千石に渡す。

「少し冷めてしまったが、飲めば多少は気分も落ち着くだろう」

「ん、ありがとう」

冷めてぬるくなった紅茶だったが、千石にとっては暖かく感じた。

一口と口に入ると気分が落ち着く。

何をしていたんだろう、かと数時間前の自分を思う。

目の前の跡部が何も聞かずに黙って、紅茶を飲んでいた。

彼の彼なりの気遣いを感じて千石は嬉しくなっていた。

「跡部くん。正直、君が来てくれたことうれしかった。それに…まだ、番号覚えててんだ……」

「お前に話があったから…な…」

消せなかった。

互いの本心もわからないままで、会えば身体を重ねるだけの存在だった。

気がつけば、自然消滅。

だから…消せなかった。

跡部の中でわずかに残る千石への思い。

それは忍足という恋人が出来ても残ったままだった。

いずれは忘れられる。

彼とはただ…身体を重ねるだけの存在だったから…。

「…千石……」

つぶやくような小さな声で名を呼ばれ、千石は顔を上げた。

「…俺はお前が好きだった……」

真剣な跡部の表情。

千石の驚いた顔。

それも一瞬で、消えた。

「…跡部君……俺も…君が好き……だった…よ…」

フッと。笑みを浮かべ、千石もまた、そう言葉を告げた。

「ずっと…言えなかった。言えば…千石、お前が目の前から消えると思った…だから、いえなかった……」

あの時、ちゃんと伝えていれば、こんなことにはならなかった。

気持ちを伝えて幸せが逃げる方よりも、伝えずにつなぎとめる事だけを選んだ結果だ。

跡部はそのまま椅子の上に崩れた。

「跡部君…」

千石はフワリと跡部の肩を抱きしめた。

「ごめんね。跡部君、俺も…同じ気持ちだったんだよ。
認めるのが怖かった。認めれば、全てが消えてしまうと思ったから……ごめんね…跡部君…」

微かに震える千石の肩を跡部は優しく抱きしめた。

そして……そっと、唇を触れ合った。



まだ付き合っていた頃――。

『跡部君…、俺達、結構合うじゃん…』

身体を重ねながら、そう言った千石の言葉。

『お前だけじゃねーの?』

そう、いいながら頬を紅く染める跡部。

『ねぇ、俺達恋人同士だよね?』

千石の息が顔にかかるたびに身体が熱くなる。

『俺はなった気ねぇー』

『だから言ってるでしょ。認めさせるまでセックスするって…』

冗談めいた会話。どこまでが本気でどこからが冗談だか分からない。

『跡部君…君とのセックスが一番気持ちいいよ』

千石がおどけながら、そう言ったのを覚えていた。

そう、それは遠い記憶の中の思い出の一つに過ぎない。

それでも…その時はそれでよかったと思っていた二人だった。



「…すっかりお世話になっちゃったね、跡部くん」

次の日、千石は玄関先で跡部にそう、告げた。

まだ朝早いが、千石は家に一度帰ると言った。

白い制服は昨日のうちに洗い、乾かし綺麗になっていた。

「跡部くん。俺、忍足君にひどいことした。そして…君にも……。
俺さ、忍足君に嫉妬してたんだ。君に愛されている忍足君に……」

昨日はゆっくりと眠れた。

隣に跡部がいたから。

久しぶりに愛しい人の温もり。

千石は改めて、跡部が好きだったんだ。と思う。

今でも、多分好きかも知れない。でも、諦めなきゃ。とも思う。

「ねぇ、跡部君。正直に言って。忍足君のこと…俺以上に好き?」

にっこりと笑みを浮かべる千石。跡部は千石の気持ちを察した。

「…あぁ。俺は忍足が好きだ。アイツのためなら…全てを捨てられる」

跡部の真剣な瞳。千石もじっとその瞳を見つめ返していた。

「それはさぁ、忍足君にいってあげなきゃ。じゃぁ、俺行くよ」

静かにドアが開き、千石の姿が消える。

「千石、…お前を好きになってよかったぜ……」

千石は耳の奥で聞こえる、その言葉を振り向かずに胸にしまった。

――バイバイ、俺も跡部君を好きになってよかったと思うよ―――

朝の日差しが、少し目に沁みた千石だった。



つづく